ぼくらはみんな美の奴隷

美を見て死ぬいつかのあなたとわたしのために

「社会のニーズ」がなんぼのもんじゃい

こんばんは。筆者だよ。

 

 

きょう、とある行政主体の市民プログラムの説明会にいってきたのですけれども、わたしが期待していたようなプロジェクトではなかったです。というか、あんまりにあんまりで、帰り道泣きたいきもちでした。
 
いわゆる「市民の手によるまちづくり」(こういう言葉がでてきたら、あやしいなと思ってください)のためのプログラムなのですけれども、生涯学習、まちづくり、さらにはそのなかの「人づくり」(この単語もうなんか拒否反応がやばくて顔が引き攣ってなかったか心配)のかたが担当について、

「地域の課題を見つけ」、「それを解決するための提案をしよう」

という大枠で、そこから

「ニーズ調査」「先行事例研究」「既存対策」そして「プレゼンテーション」からの「審査会」です。


ここまで読むと、文芸大生のかたはピンとくると思います。
そうです。「企画立案総合演習」と同じです。やりかたも全く同じだし、結果も全く同じです。(学生の講義と一緒にすることにご意見あるかたもあるかと思いますが、文芸大も優秀なアイディアは実際に商品化等実現されていることをご承知ください)
 
 
で、わたしはここで、「これまでに誰もやってこなかった静岡の課題(=地方で芸術をやりたくても食べていけず少なくとも東京に出るしかないひとたちに対してのアプローチの最初の地)に、いろんな人と取り組めるチャンス!」と思って期待1200%で挑んだわけなのですけれど、なんというか、正直、企画立案のがまだましです。
 
説明会のなかではうんざりポイントが6つあって、それぞれを統合すると、原因がひとつに集約されているように思いまして、先ほどキャスをしながら思考整理しました。以下、かなしい感じのエッセイです。

①「地域の課題」が「社会のニーズ」という言葉にすりかわっていること

まず、説明書きには「地域にあるまだ解決されていない課題」について取り組む、とかいてあるのに、いつのまにかそれが「社会のニーズ」ということばにすり替わっているように感じます。この二つ、全く違う言葉ですよね。だって「課題」がそのまま「ニーズ」になるわけではないですし、「ニーズがあること」そのものだって「課題」であるとは限らないはずです。したがって、「社会のニーズ」をみつけて、それを提供することが、「地域の課題の解決」に直接つながっているということではありません。しかし説明では、いつの間にか、「ニーズを把握すること」ばかりが取りざたされています。

 

 
②「ニーズさがしゲーム」に成り代わっていること

「ニーズを把握すること」ばかりが優先されていくと、「ニーズをさがす」こと自体が「目的化」していきます。まずは「課題を解決する」という目的があって、「ニーズの把握」というのはその手段でしかないのに。修了生の例では、何がしかの賞まで受けたけれども、実際に蓋をあけたらイベントの応募者はゼロだった、とか。笑い事じゃないです。これに対して、主催者はなにかフィードバックとかフォローアップを行ったんでしょうか。そこまでは管轄外、と言えばいいですけれど、自分たちがはっきり運営だというなら、そのあとのことにだって責任をもつべきです。そのことに対して恥ずかしいと思わないのならないならもうやめろ

この事例に関しては、理由は二つ考えられます。つまり

「ニーズに合ったものを提供できていない(ニーズ間違えている)」か、「そもそもニーズという前提間違っている」かです。

なんでそういうことになったのかって、なんで考えないのか。そうしなかったら、なんかいでも、おんなじことが起こります。
 

③「社会のニーズ」が「審査のニーズ」に変わりそうなこと

そしてここで一番こわいのは、課題の実現可能性やさまざまなことを考える前に、企画そのものがあたかも「社会に必要とされてそう!」と「思わせたもん勝ち」=アイディア勝ちになってしまうんじゃないかと思うからです。アイディア勝負というのもわかりますけれど、そうすると、例えば研究費獲得のために推奨されたり流行している課題ばかりにとりくむ研究室とか、受賞の傾向やギャラリーとか富裕層のニーズにのっとって作品づくりをはじめる芸術家とか、そういうものと同じになっていく気がするのです。実際にどのような基準で審査が行われているのかはわかりませんけれども(質問すればよかった、反省)、「本当に社会のニーズに沿っているのか」って、すごく難しいことだと思うけれども、だれが、どのように判断するのだろう。だって、受賞したはずの事例でさえ、そういう被害が起こっているのですから。ということは、判断の基準が間違えていたということに他なりませんよね。反省すべきです。全員が。なぜそうなったのかを、もっと考えなくてはならなかったはずです。

突飛なだけのアイディアが許されるのは学生までだし、これだけやってるとか、こんなにやったとか、そういうことは結果をみてからフィードバックして修正してブラッシュアップを重ねて、どこかで成果を得てはじめて道がつながるものです。ていうかがんばるのなんてあたりまえです熱意があるのもあたりまえです。こっちは熱意を持って参加してんだまずはお前の熱意を見せろそこからじゃないと話はなにもすすみませんし、「がんばった」ということだけが評価されるんだったらほとんどの人は毎日ボーナスです。

 

④行政に「問題の自己目的化」ができてなさそうなこと

で、そうなったときに、ここは行政の致命的な欠陥だと思うんですけれども、このプロジェクトの意義が「きちんと継承されているのか?」ということにかなり疑問を感じました。

実は、今回のプロジェクトは四半世紀ほどつづいていて、その中で何度か名前が変わっています。そして、わりと最近まで「静岡」の名が冠されていたのです。つまり、どこかで「静岡」から「地域」という一般化された名称への変更があったのですが、その意図であるとか、そもそものこのプロジェクトの意義などが、何年かに一度自分の意志とは関係なしにすべて総替えされてしまう行政に可能なのか、ということです。

上司から辞令を交付されたからとか、そういう理由で配属されたとなると、「あとから」このプロジェクトを自分のなかに落とし込む作業が必要になります。(もちろん誰かと一緒にやるものですから、市民も意見のすり合わせは必要だけれども)そういうときに、「自分の問題として」、同じようにプロジェクトに向き合っているのか?ということが少し心配でした。

つまり、行政はかってにじぶんで「行政の限界」をつくっていて、市民がやれば解決すると思ってそうに見える、ということです。「行政がやるまちづくりには限界が…」とか、さも当たり前のように述べられていましたけれども、なぜ「じゃあ市民がやれば解決する!」になるのかということと、なぜ「どうして行政ではできないんだろう」ということを考えないのか、ということです。

「われわれはあくまで運営側。人材を育成しますから、あとは市民のみなさんでまちづくりを!」というのは、責任丸投げとか以前に「われわれが市民のみなさんに対してなにかを申し上げては、みなさんのクリエイティビティを阻害してしまいます」とでも考えているならこちらはバカにするのもいい加減にしろて感じ。ひとまず文化については人間によって構成される社会というしくみのなかでおこるさまざまな事象についての反応だから安心してかかってこいよと申し上げたい。

そもそも市民の手では足りないところを行政で補っているのであって、行政ができないところを市民が補っているのではないのだけど、そこんとこわかってますか。あなただって、行政職である以前に一市民ですよね、ということです。

 

⑤参加者も自己目的の達成ができなくなりそうなこと

最初のところで、「やりたいこと=Wants」と「社会に求められていること=Needs」というのは全然違う可能性があります、という話まではわかったんですけど、

「なので社会のニーズを適切に把握できるようになりましょう!」のあたりで「は?」とおもいました。

そりゃあ独りよがりで押しつけがましい提案にならないようにすることは大切ですけれども、なぜ「自分のやりたいこと」から「ニーズ」を導いてはいけないのか?ということです。これはないものねだりではなくて、それこそが挑戦なのではなかったか。

地域の課題にとりくむために、自分の考えるニーズを人々にももってもらう、つまり「ニーズの創出」こそわたしが挑戦してみたいテーマだったんですけれど、説明では「すでにあるはずのニーズを探せ」と言われているようで、かなりショックを感じました。

そうやって、だんだんと自分の意志を離れるワークをしているとその末路がどうなるかというと、企画立案総合演習でよくわかりましたけれども、 率直に申し上げると「しんどい」になります。つまりんやりたいことじゃないのに、なんでやってるんだろう、になります。このプロジェクトの行政担当者にも言えることですが。

しかも作業量は膨大で(誰もやっていないことに手をつけるわけですから、やることはいくらでもでてきます)、複数人でやっていると、そのうち必ず、「誰かだけが損/楽をしている」ような状況に陥るのです。時間や金銭に余裕のありそうな、誰かの負担だけが増えたりします。すると「不平等」感がうまれて、場の空気が不穏になる。これはどんな状況においてもいえることですから、グループワークで半年一緒にすごすのにこうならない保証はありません。

つまり、こういうことには、双方で「やりたい/ほしい」が成立していないといけないはずなんですよね。「ニーズ」にばかりこだわっていると、このプロジェクトである意味がないとおもう。

 

⑥静岡でやることの意義が感じられないこと

また、ここでは「子ども」とか「一人親」とか「LGBT」とかあげられていた対象者もそうだし、たいていの課題についてもそうだったのですが、適当と思われている課題が「どんな地域にでもあてはまる」ものなんですよね。「静岡」でなきゃいけない理由がひとつもなくて、「じゃあ静岡で考える意味なくないか」っておもってしまいました。なんというか、都市の風景が均一化していくように、それぞれの管轄する地区(あえて地域とはいいません)にみあったことをしているはずの行政も、やはり均一にというか、やってることんどこもみんな同じなんですね、まちづくりとか人材育成とか。することは大変素晴らしいし、チャレンジすることはいいのだけれども、粗悪なものばかりが大量生産されていては意味がないというか、このプロジェクトがなんで「静岡」ではないのかということも、もう少し掘り下げてほしかった。(し、私も掘り下げるべきだった)

 

 

以上、のようなことを、きょうはもやもや考えていました。はあ。かなしい。つかれた。こんなはずじゃあなかった。おもてたんとちがう。いろいろ思いましたけど、つまるところ「私の期待値が高すぎた」というのもひとつあるし、単純に「自分の願いが上手く通らなかった」というだけの話でもあります。このプロジェクトこそ自分は求めていたんだ!という人だっているだろうし、実際に始まってみれば、もっと違うことがたくさんおこるのかもしれない。でもわたしは、一度こんなことを思ってしまって、どうにも、こうにも、動けなくなってしまいました。器量が狭い。

 

さいごに、この6つの事が起こってしまったのは、つまるところ一つの原因であると言いました。以下その話をして、おわります。なんかもうイライラしてきてるのが如実です。つかれたね。わたしもつかれました。すまない。

 

「地域」や「ニーズ」という言葉が曖昧すぎる

ようはこれだと思うんです。

単純に、「地域」ってなにを指しているの?ということだし、「ニーズ」ってなんなの?ということです。つづきは参加後のプロジェクトで!みたいなこと言ってたけどいまここで説明できないものを参加してからやらせようとするな。

なんで「静岡」じゃないのか、ということがずっと気になっていたし、それについての話題ともかぶりますけれども、「地域」であることにこだわらなきゃいけない理由がわからない、これまでのこと鑑みると、単純に「問題がどこにでもあることばっかりだから、静岡である必要がなくなったので、地域というどこでもあてはめることができる言葉にしました」といっているようにしかみえなくなってきて、早く私を助けてくださいという感じです。

あと、「ニーズ」ってほんとうになんなんだ。なにがそんなに大事なの?ニーズ調査したのに結果が大参事じゃん!という事例をみたあとでニーズを探せとか言われても説得力ないわ。単純に「需要」でないならなんなの?てかニーズって何マジでちゃんと説明してほしいほんとに。Wantsを切り捨てたのもよくわかんない。

 

もっというと「社会のニーズ」に沿わないものは存在しててはいけないんですか!?!?!?!?すいませんね!!!!!って感じなんだよ。そういう、「すぐに社会に役立つ」、みたいなこと、ほんとうに、目の前の問題を時間限りで解決するだけというか、根本的な問題解決になにもなってないとおもう。

 

 芸術家の皆さん、!!、!社会のニーズなんていうクソみたいなワードに騙されないでくださいね!!!!!

 

なんだか怒りが先行してきてしまったし、時間もばかみたいにかかってるし、あしたも授業があったりするので、もうこのへんで。

残念だなあと思います。とても。やったことあったりもやもやしているから気持ちがしょげてるとかではなくて、このプロジェクトに参加できないことで、なにがしかの出会いとかをなくしてしまうかもしれない自分が、とても残念な人間にみえて、またかなしくなっています。

 

でもとにかく「社会のニーズ」とかっていうやつには気をつけたほうがいいぞおやすみ。