ぼくらはみんな美の奴隷

美を見て死ぬいつかのあなたとわたしのために

ど素人こそ声にせよ:一億総「理解」症候群と戦うために

こんにちは。筆者だよ。

 

このタイトルにはしばらく迷いました。何ごとも、名前はとても大切なものですから。

私はけっこう、韻の感じというか、声に乗せやすさを重視するタイプですから、書いては読み書いては消し、ようやく落ち着いたのが本日の、このいくぶん挑戦的なタイトルです。

昨今いろいろと見に行ったりするなかで、やっぱり一番気になるのは、このことなんですね。

 

「理解する」

 

アートの世界のなかで、非常に重要なワードだと思います。ただしこの言葉は、アートにとって重要なイヴェントでもエレメントでもないのでご注意。

今回はこのお話にしようと思います。

 

例えば、私は無類のアート好きで、特に現代美術なんかにとても凝っている。

だから最新の展覧会や個展の情報なんかを聞くと、たいていはひょいとバスか電車に飛び乗るわけですが、そうして見た後にはアレがよかったココがいいとSNSなどでひとに勧めますよね。友人たちと昼食を共にしながら、他愛もない会話とともにその話題を混ぜることもあるでしょう。

 

ただ、そういった時に聞かれる言葉で、最もひっかかりがある(そして、その気もちも十分にわかる)ものはこれです。

 

「ゲンダイビジュツって、よくわかんなくて」

 

だよねぇ

わかる。わかるぞその気もちは。

 

だって向こうははじめから、「わかるもの」なんか提示してないんだもの…。

または、「『わかること』など求めていない」あるいは「理解を前提としていない」と言いかえてもよろしいかと思う。

 

これがもし、数学の問題だったとしましょう。センター試験の国語だったとしましょう。

それなら話はとっても早い。答えがあって、そこに辿り着けばいいんです。

そのための近道も裏道も、大人たちはみんな知っている。知っている奴が有利で、分かった奴が成績上で上に立つ。

「答えがある」ということは、とても明快でやりやすい。

 

しかしながら、アートはそれらとは全く無縁なのです。

 

「わかんないけど、なんかイイかも」

 

この、「受容する感性」(価値観と読み替えてもいいかもしれません)こそが、アートを観る上ではとても重要です。

 

けれど、これがなかなかどうして難しい。

理解できないものを嫌がる感覚は、誰にでもあります。わかんなかったら気持ち悪いものです。

 

でも、例えば一つの答えがあったとして(あくまで例えであって、本当は存在しません)、それって意味のある事でしょうか。

 

何度か、終演後に演出家のアフタートークがある劇を見に行って、そこでも観客からこんな質問が飛んでいるのは、珍しいことではないようにおもいます。

 

「〇〇って、どういうことなんでしょうか」

 

アッそれ聞いちゃうの???!??!?!

あなた何の為にお友達ときてる?!?!!!?!

このあとカフェでその演出についてアレコレ話すためでは???!?

 

たまげました。

正直に言います、作品の「意図」を探ることって、めちゃめちゃに野暮い行為だと思います。

 

作者に真正面から正直に聞いてしまって、もし作者が何か言ってしまったら。(実際は、少しばかり濁すか、ぎりぎりの躱しをするかでしょうと思います。そもそも制作側も答えをもたないこともしばしばあります)

 

それが「正解にもっとも近いもの」になってしまうではないか。

 

なんのためにわざわざ文字を演技に起こして大勢に見せているのでしょうか。

「自分の答え」を自分で考えてほしくて見せているのです。

 

といって、たいていの脚本家や演出家は、そこまで壮大なテーマ性や意図を作品にいれているというようなことは、あまり聞いたことはありません。

そんなことをすると、作品は「芸術」から離れていってしまう。つまりプロパガンダに近づいていくということです。

 

でも、「こういうことを前提として作品に向き合う」ということに慣れていないと、やっぱり「理解すること」に神経が使われてしまうんですね。

 

特に、大人になると「理解できないこと」をより一層受け入れられなくなります。

分からないことを分からないままにできない。分からないと言えない。分からないと楽しくない。

 

もちろん、誰それの大作油画をみて「これはこれまでの絵画とは全く異なった技法が使われていてそれは社会のこういう動きがどうたらこうたら」ということがわかれば、「より」芸術に親しむことが出来ると思います。

そうしたくて美術史の社会人講座を受講されている方は私の大学にもたくさんいらっしゃいます。とても素晴らしいことです。

 

けれど、わたしは大学1年生の春、学芸員資格のために右も左も分からないまま、とにかく必修とかかれた美術史の講義を履修登録をしました。

 

恥ずかしながら、西洋美術のことなんて何一つ知らなかった。

ピカソのことだって「わけわかんなくて好きじゃない」としか思っていませんでした。

けれど今は、美術史をはじめとする膨大なレポート量を要した数々の学芸員資格科目を打ち倒し、「青の時代はなかなか好きだけどあとはそんなに好きじゃない、でも現代美術の発展のためにこの人が行ったことはマジでヤバい」と思ってます。

 

この4年間で私は、「色々見てその発想はマジですごいんだけどやっぱり作品の良さはそんなにわかんない(=売っててもコレクションしないと思う)」という結論に至ったのです。つまり、理解したってやっぱり自分の感性にはピンとこなかった。ごめんなピカソ。その偉業を尊敬はしてる。

 

逆に言えば、「ドンピシャ」なものもあるんです。ありますよ。読んでくれているみんなに、もっといえばみんなに関わる全ての人にあります。世の中にどんだけ作品あると思ってんだ。

わたしはあると信じているし、この「信じる」ことこそが私を動かす強い力に変わります。

 

誰かのどこかに存在する「スイッチ」を押す、「めざめ」のための最初の作品。

それは絵画かもしれないし、彫刻かもしれないし、書画かもしれないし、演劇かもしれないし、音楽かもしれない。

 

だれがどんなものに「目覚める」のかは私にはわからない。だからこそ芸術は楽しいと思う。予測できないことは、多くの不安要素とともに、心躍る高揚をももたらします。

不特定多数の、不特定多数の感性に向かって発信されている芸術が、また新しいものを創造するきっかけになる。こうして芸術はこれまで続いてきました。私はそう信じている。

 

 

つまりは、「芸術を楽しむこころ」であると思うのです。

 

ただこれについては、多くの場合は文科省のせいだと私は思う。小・中・高といった普通教育のなかで、芸術に親しむ感性を育ててこなかった。

社会のなかで、芸術が生きるのに必要ないもの、金持ちの教養のように扱われていて、とくに現代美術などにいたっては、ピカソが権威であることが広く伝えられるのみである。

 

私まずこの「教養」としてのアートみたいな在り方って間違ってると思うんですね。

 

だってそもそも芸術って文化の中から生まれてんですよ。

ならその文化圏にいるひとは、すべて等しく芸術を享受できるべきでは?

 

アートというのは、「素人は黙ってろ」なんて世界じゃない。

ちゃんとそういうことを教えてないし、感性を磨くための授業も雑だった。私の卒業した高校も、芸術科目は選択でした。

 

以上半ば怒りながらも、自分もまた辿ってきたこの茨の道を振り返りながら、ばかみたいに高く見せかけられた敷居を壊す準備をしている。

そして、これを読んでくれているみなさんにも、ぜひしてもらいます。

 

思うに、感性という磨くのは、

 

①まずはこれまでの歴史のなかで「良い(と言われてきた)」ものをみて、

②「これがなぜいいものなのか」ということを正しく理解していく

 

ということだと思う。何事も模倣から始まるってピカソも言ってた。

そしてあとはポケモンgoみたいな感じ

 

③自分の琴線に触れる何かを求めて旅立つ。

 

いいと思ったらグッズ売り場でポストカード買うとか、その美術館の次回展覧会をチェックするとか、行ったチケットを集めてニヤニヤするとか。

 

私はこの過程、大学でやっとやりました。東京にしこたま通う日々、一ミクロンだって高校生のころは想像していなかった。

だから私はもういいのですけれど、そうじゃない人って、世の中にすごくたくさんいる。これめっちゃ大変だよ~。社会の変革大変~。

まあでも、私やります。待ってて社会。笑えよアート。

 

長くなっちゃったんですけど、みんな大丈夫ですか?ここまでついてこれてる?読んだ人は「ピカソと遊ぼう」って呟いてみてね。

 

今回の総括は、

芸術は天才のものではない。すべて我々のもの!ということ。

自信を持って。ほんの少しの期待も一緒に。

理解なんかできなくたっていいんです。向こうはそんなの求めてない!

リラックスしてたのしんで!

 

そういうことです。

 

そして行こう、まだ見ぬ推しアートに出会うために。

 

ど素人こそ声にせよ!

 

 

みねこ