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ぼくらはみんな美の奴隷

美を見て死ぬいつかのあなたとわたしのために

アートは見てよし愛でたし買えばよし

こんにちは。筆者だよ。

昨今はいろいろなSNSが飛び交っていて、いろいろなことをすぐに、多くのひとにシェアできるようになって、かくいう私もそれらを存分に活用していて、りっぱな、スマホに繋がれた犬となっているわけです。

 

けれども、個人的におもうことが少しばかり、いやとっても増えてきて、それらはあんまり大きく開かれたところや、文字の制限があるところでは、なんとも気恥ずかしい。

なので、ブログへと帰ってきた次第であります。

 

このブログでは、「アート」を中心にあつかいます。

わざわざ英語にしているのは、「芸術」と言う言葉をあててもよいのですが、「美術」ということばを使うものを扱う場合がありますので、より広義の意味で、「アート」ということばに逃げを打つことをご了承願いたい。

※ふたつの言葉については、次回述べることにします。

 

で、アートについて、たとえば展覧会のこととか、おともだちと話して考えたこととか、またお芝居をみてかんじたこととか、つまりエッセイなどを、思うままに連ねていくことになるのでしょう。

言いたいことはたくさんあるのに、いつもふわふわと考えるばかりで、なかなか文字にしないものですから、すぐに忘れていってしまって、そうしていつか、小さく黒いかたまりのようなものになっていくことが、少しばかり恐ろしくなったのです。

 

 

では、本日の本題に入ろうと思うのですが、今回は、なかなかどうして、テーマを選ぶのがむつかしい。何事も初めが肝心ですからね。

なにを書こうか、どうしようかと思うだけできのうも今日も過ぎていきます。

 

ですから、本日は総記として、「アートを買う」ということについて、お話しようとおもうよ。

突然どうしたと思われるかもしれないけれど、かくいうわたくし、筆者は、23歳にしてアートコレクターの道へと進もうとしています。

 

 

私がはじめて作品を買ったのは、今年の3月12日。まだギリギリ22歳でした。

 

この世界には、アートフェアという芸術の売買スタイルがあるのですが、日本なら国際展示場、パリならグランパレのアーチ天井の下、スイスならメッセ・バーゼルを会場として行われる、いうなれば大規模なアート見本市展示即売会です。

 

私がいった「アート・イン・パークホテル東京」や「アートフェア・アジア・福岡」は、なんと会場がホテルの客室。

普通は人々が泊まるお部屋のなかに、いっぱいの作品が滞在しているのです。

ベッドのうえはもちろん、サイドボードも壁も窓も、使うところはバスルームのなかにまで作品で埋め尽くされている。ギャラリーが誇る自慢の品々がこれでもか!とそこに並べられている。圧巻といえます。

 

そこで私は出会ってしまったのです、かの絵というものに。

わたしがいわゆる美術に目覚めたのは大学2年のときで、それはポーラ美術館でモネの≪セーヌ河の日没、冬≫を見て涙が止まらずしばらく突っ立っていたことに起因するのですが、久しぶりに味わいました。

 

私が支配しているはずの私の目が、かの絵を見ることしか許してくれなくなるのです。

 

しぜん涙が止まらなくなり、そしてわたしは親切なギャラリストに心配してもらいながら、また言葉巧みに誘導され、支払いの契約書にサインをすることとなるのです。

 

 

あれから半年が経って、気づけば私のコレクションは9点になりました。うち3点は、まだ完済しておりませんので手元にはありません。

 

そう、アートって、分割払いできるんですよ。その場で札束ボーンじゃなくても、小切手バシーンじゃなくてもいいんです。

もちろんそんな高額なもの買いませんけど…。てか買えませんけど…。

 

とはいうものの、最初に買ったのはおよそ一介の貧乏学生が買うような金額ではないのかもしれない。いくらとは言いませんが、わたしが月末から通う自動車学校の合宿免許費よりも高額です。ワーオ。 

 

でもね、ギャラリーのひとというのはたいてい優しくて(とくに女のひとは、とても親切)、お支払いはいつからでもいいですよ、分割の回数もそちらにすべてお任せします(もちろん営業トークなどではなく、本当に自由に回数を決められる)とニコニコしてくださることが多いです。

 

とにかく、別にぜんぜん難しいことではないのです、絵を買うということ自体は。

美術館に飾ってある絵は、たいがいだれかが所蔵しているものですから、私が手に入れることは、当然のことながらできません。

 

一方で、ギャラリーとか画廊に行けば、絵を、その世界にひとつしかない制作物というものを、簡単に自身の固有財産とすることができます。

 

そもそも作品というのは、なにも数十万数百万というものばかりなわけありません。10年着たいコート、貯めたお小遣いで買ったスニーカー、とっておきのデートのためのワンピース。

アートというものは、それくらいの価格帯で世界中に向けて発信されているものですから、本来はそこかしこにあるべきなのです。

 

 

けれども、多くのひとびとはそれを知らないのです。実際、私も半年前まではまったく思いもよらないことでした。

 

 

わたしは、もっとたくさんの人に味わってほしいのです、

絵を買うことの喜びというものについて。

 

 

それはとても喜ばしい感情です。たとえば新しい靴を初めて履いて出かける日、新しい音楽に出会った日、待ちに待った作品が開幕した瞬間――その時と同じように、新しく、愛すべき作品に出会うということは、間違いなく歓喜の時間なのです。

 

そしてアートというものは、対価を支払うことで、その作品を生み出した作者に対して敬意と愛を表することができるだけでなく、作品そのものを、間違いなく「自分だけの」ものにすることができるのです。

 

えっこれ素晴らしくない???????????

 

すてきな作品を所有することへの対価がそのまま作家を支援することになるシステムイズヤバみ??????????????

 

なんかねたまにアートを価値、とくに金銭的なあれそれと結びつけることに眉を顰める人がいますが、花屋が花を売っているように、絵描きというのは、絵を売って生きているわけです。

あなたが売りたい、わたしがほしい、ですからそれでいいわけです。需要と供給が一致しているわけです。

 

目を向けてほしいのは、価値を判断するということの是非ではなく、作品を愛し、作家を応援するために、対価を支払うという行為そのものなのです。

 

 

日本のアートシーンは、はっきりいって欧米諸国にくらべて、というかアジアの隣国にすら10年あるいは20年遅れています。

まず日本には、常設的なアートの売買システムがない。今回のような、年に一度のイベントでもない限り、多くの人(それでも人口に対する来場者数は、欧米の100分の1程度です)が訪れることはありません。

 

ですから、作家がみんな海外へと流れていく。欧米での箔がなければ、故郷の国で価値が見出されない。だからもっと作家は海外へ…という負のループが止まらないのです。

 

このような日本のアートのしくみを変える、端的にいえば、

日本人作家が日本で食べていけるようにする。

 

これがわたしの当面の人生のすべてです。そのために今、エンゲル係数を最高値まで上げながら、出来る限りのたくさんのものを、自分の目と足で、見て、歩いて、感じています。

 

このブログは、そんな大層な夢を抱えているただの学生の、思考整理のためのメモ帳ですが、できることから、こつこつと。

 

 

やってみよう、買ってみよう、アート。

 

2016年11月5日、6日。

文芸大の、ちいさな小講義室で。

 

あなたと出会えるのを、アートはずっと待っています。

 

 

なんか最後番宣みたいになったけど、いろんなところに大きく出た感じで言いふらし回っているので、ぜひ遊びに来てくれると嬉しいです。

ブログがんばりますので、ときどき覗いてやってください。

 

みねこ