「社会のニーズ」がなんぼのもんじゃい
こんばんは。筆者だよ。
きょう、とある行政主体の市民プログラムの説明会にいってきたのですけれども、わたしが期待していたようなプロジェクトではなかったです。というか、あんまりにあんまりで、帰り道泣きたいきもちでした。
いわゆる「市民の手によるまちづくり」(こういう言葉がでてきたら、あやしいなと思ってください)のためのプログラムなのですけれども、生涯学習、まちづくり、さらにはそのなかの「人づくり」(この単語もうなんか拒否反応がやばくて顔が引き攣ってなかったか心配)のかたが担当について、
「地域の課題を見つけ」、「それを解決するための提案をしよう」
という大枠で、そこから
「ニーズ調査」「先行事例研究」「既存対策」そして「プレゼンテーション」からの「審査会」です。
ここまで読むと、文芸大生のかたはピンとくると思います。
そうです。「企画立案総合演習」と同じです。やりかたも全く同じだし、結果も全く同じです。(学生の講義と一緒にすることにご意見あるかたもあるかと思いますが、文芸大も優秀なアイディアは実際に商品化等実現されていることをご承知ください)
で、わたしはここで、「これまでに誰もやってこなかった静岡の課題(=地方で芸術をやりたくても食べていけず少なくとも東京に出るしかないひとたちに対してのアプローチの最初の地)に、いろんな人と取り組めるチャンス!」と思って期待1200%で挑んだわけなのですけれど、なんというか、正直、企画立案のがまだましです。
説明会のなかではうんざりポイントが6つあって、それぞれを統合すると、原因がひとつに集約されているように思いまして、先ほどキャスをしながら思考整理しました。以下、かなしい感じのエッセイです。
①「地域の課題」が「社会のニーズ」という言葉にすりかわっていること
まず、説明書きには「地域にあるまだ解決されていない課題」について取り組む、とかいてあるのに、いつのまにかそれが「社会のニーズ」ということばにすり替わっているように感じます。この二つ、全く違う言葉ですよね。だって「課題」がそのまま「ニーズ」になるわけではないですし、「ニーズがあること」そのものだって「課題」であるとは限らないはずです。したがって、「社会のニーズ」をみつけて、それを提供することが、「地域の課題の解決」に直接つながっているということではありません。しかし説明では、いつの間にか、「ニーズを把握すること」ばかりが取りざたされています。
②「ニーズさがしゲーム」に成り代わっていること
「ニーズを把握すること」ばかりが優先されていくと、「ニーズをさがす」こと自体が「目的化」していきます。まずは「課題を解決する」という目的があって、「ニーズの把握」というのはその手段でしかないのに。修了生の例では、何がしかの賞まで受けたけれども、実際に蓋をあけたらイベントの応募者はゼロだった、とか。笑い事じゃないです。これに対して、主催者はなにかフィードバックとかフォローアップを行ったんでしょうか。そこまでは管轄外、と言えばいいですけれど、自分たちがはっきり運営だというなら、そのあとのことにだって責任をもつべきです。そのことに対して恥ずかしいと思わないのならないならもうやめろ
この事例に関しては、理由は二つ考えられます。つまり
「ニーズに合ったものを提供できていない(ニーズを間違えている)」か、「そもそもニーズという前提が間違っている」かです。
なんでそういうことになったのかって、なんで考えないのか。そうしなかったら、なんかいでも、おんなじことが起こります。
③「社会のニーズ」が「審査のニーズ」に変わりそうなこと
そしてここで一番こわいのは、課題の実現可能性やさまざまなことを考える前に、企画そのものがあたかも「社会に必要とされてそう!」と「思わせたもん勝ち」=アイディア勝ちになってしまうんじゃないかと思うからです。アイディア勝負というのもわかりますけれど、そうすると、例えば研究費獲得のために推奨されたり流行している課題ばかりにとりくむ研究室とか、受賞の傾向やギャラリーとか富裕層のニーズにのっとって作品づくりをはじめる芸術家とか、そういうものと同じになっていく気がするのです。実際にどのような基準で審査が行われているのかはわかりませんけれども(質問すればよかった、反省)、「本当に社会のニーズに沿っているのか」って、すごく難しいことだと思うけれども、だれが、どのように判断するのだろう。だって、受賞したはずの事例でさえ、そういう被害が起こっているのですから。ということは、判断の基準が間違えていたということに他なりませんよね。反省すべきです。全員が。なぜそうなったのかを、もっと考えなくてはならなかったはずです。
突飛なだけのアイディアが許されるのは学生までだし、これだけやってるとか、こんなにやったとか、そういうことは結果をみてからフィードバックして修正してブラッシュアップを重ねて、どこかで成果を得てはじめて道がつながるものです。ていうかがんばるのなんてあたりまえです。熱意があるのもあたりまえです。こっちは熱意を持って参加してんだまずはお前の熱意を見せろ。そこからじゃないと話はなにもすすみませんし、「がんばった」ということだけが評価されるんだったらほとんどの人は毎日ボーナスです。
④行政に「問題の自己目的化」ができてなさそうなこと
で、そうなったときに、ここは行政の致命的な欠陥だと思うんですけれども、このプロジェクトの意義が「きちんと継承されているのか?」ということにかなり疑問を感じました。
実は、今回のプロジェクトは四半世紀ほどつづいていて、その中で何度か名前が変わっています。そして、わりと最近まで「静岡」の名が冠されていたのです。つまり、どこかで「静岡」から「地域」という一般化された名称への変更があったのですが、その意図であるとか、そもそものこのプロジェクトの意義などが、何年かに一度自分の意志とは関係なしにすべて総替えされてしまう行政に可能なのか、ということです。
上司から辞令を交付されたからとか、そういう理由で配属されたとなると、「あとから」このプロジェクトを自分のなかに落とし込む作業が必要になります。(もちろん誰かと一緒にやるものですから、市民も意見のすり合わせは必要だけれども)そういうときに、「自分の問題として」、同じようにプロジェクトに向き合っているのか?ということが少し心配でした。
つまり、行政はかってにじぶんで「行政の限界」をつくっていて、市民がやれば解決すると思ってそうに見える、ということです。「行政がやるまちづくりには限界が…」とか、さも当たり前のように述べられていましたけれども、なぜ「じゃあ市民がやれば解決する!」になるのかということと、なぜ「どうして行政ではできないんだろう」ということを考えないのか、ということです。
「われわれはあくまで運営側。人材を育成しますから、あとは市民のみなさんでまちづくりを!」というのは、責任丸投げとか以前に「われわれが市民のみなさんに対してなにかを申し上げては、みなさんのクリエイティビティを阻害してしまいます」とでも考えているならこちらはバカにするのもいい加減にしろて感じ。ひとまず文化については人間によって構成される社会というしくみのなかでおこるさまざまな事象についての反応だから安心してかかってこいよと申し上げたい。
そもそも市民の手では足りないところを行政で補っているのであって、行政ができないところを市民が補っているのではないのだけど、そこんとこわかってますか。あなただって、行政職である以前に一市民ですよね、ということです。
⑤参加者も自己目的の達成ができなくなりそうなこと
最初のところで、「やりたいこと=Wants」と「社会に求められていること=Needs」というのは全然違う可能性があります、という話まではわかったんですけど、
「なので社会のニーズを適切に把握できるようになりましょう!」のあたりで「は?」とおもいました。
そりゃあ独りよがりで押しつけがましい提案にならないようにすることは大切ですけれども、なぜ「自分のやりたいこと」から「ニーズ」を導いてはいけないのか?ということです。これはないものねだりではなくて、それこそが挑戦なのではなかったか。
地域の課題にとりくむために、自分の考えるニーズを人々にももってもらう、つまり「ニーズの創出」こそわたしが挑戦してみたいテーマだったんですけれど、説明では「すでにあるはずのニーズを探せ」と言われているようで、かなりショックを感じました。
そうやって、だんだんと自分の意志を離れるワークをしているとその末路がどうなるかというと、企画立案総合演習でよくわかりましたけれども、 率直に申し上げると「しんどい」になります。つまりんやりたいことじゃないのに、なんでやってるんだろう、になります。このプロジェクトの行政担当者にも言えることですが。
しかも作業量は膨大で(誰もやっていないことに手をつけるわけですから、やることはいくらでもでてきます)、複数人でやっていると、そのうち必ず、「誰かだけが損/楽をしている」ような状況に陥るのです。時間や金銭に余裕のありそうな、誰かの負担だけが増えたりします。すると「不平等」感がうまれて、場の空気が不穏になる。これはどんな状況においてもいえることですから、グループワークで半年一緒にすごすのにこうならない保証はありません。
つまり、こういうことには、双方で「やりたい/ほしい」が成立していないといけないはずなんですよね。「ニーズ」にばかりこだわっていると、このプロジェクトである意味がないとおもう。
⑥静岡でやることの意義が感じられないこと
また、ここでは「子ども」とか「一人親」とか「LGBT」とかあげられていた対象者もそうだし、たいていの課題についてもそうだったのですが、適当と思われている課題が「どんな地域にでもあてはまる」ものなんですよね。「静岡」でなきゃいけない理由がひとつもなくて、「じゃあ静岡で考える意味なくないか」っておもってしまいました。なんというか、都市の風景が均一化していくように、それぞれの管轄する地区(あえて地域とはいいません)にみあったことをしているはずの行政も、やはり均一にというか、やってることんどこもみんな同じなんですね、まちづくりとか人材育成とか。することは大変素晴らしいし、チャレンジすることはいいのだけれども、粗悪なものばかりが大量生産されていては意味がないというか、このプロジェクトがなんで「静岡」ではないのかということも、もう少し掘り下げてほしかった。(し、私も掘り下げるべきだった)
以上、のようなことを、きょうはもやもや考えていました。はあ。かなしい。つかれた。こんなはずじゃあなかった。おもてたんとちがう。いろいろ思いましたけど、つまるところ「私の期待値が高すぎた」というのもひとつあるし、単純に「自分の願いが上手く通らなかった」というだけの話でもあります。このプロジェクトこそ自分は求めていたんだ!という人だっているだろうし、実際に始まってみれば、もっと違うことがたくさんおこるのかもしれない。でもわたしは、一度こんなことを思ってしまって、どうにも、こうにも、動けなくなってしまいました。器量が狭い。
さいごに、この6つの事が起こってしまったのは、つまるところ一つの原因であると言いました。以下その話をして、おわります。なんかもうイライラしてきてるのが如実です。つかれたね。わたしもつかれました。すまない。
「地域」や「ニーズ」という言葉が曖昧すぎる
ようはこれだと思うんです。
単純に、「地域」ってなにを指しているの?ということだし、「ニーズ」ってなんなの?ということです。つづきは参加後のプロジェクトで!みたいなこと言ってたけどいまここで説明できないものを参加してからやらせようとするな。
なんで「静岡」じゃないのか、ということがずっと気になっていたし、それについての話題ともかぶりますけれども、「地域」であることにこだわらなきゃいけない理由がわからない、これまでのこと鑑みると、単純に「問題がどこにでもあることばっかりだから、静岡である必要がなくなったので、地域というどこでもあてはめることができる言葉にしました」といっているようにしかみえなくなってきて、早く私を助けてくださいという感じです。
あと、「ニーズ」ってほんとうになんなんだ。なにがそんなに大事なの?ニーズ調査したのに結果が大参事じゃん!という事例をみたあとでニーズを探せとか言われても説得力ないわ。単純に「需要」でないならなんなの?てかニーズって何マジでちゃんと説明してほしいほんとに。Wantsを切り捨てたのもよくわかんない。
もっというと「社会のニーズ」に沿わないものは存在しててはいけないんですか!?!?!?!?すいませんね!!!!!って感じなんだよ。そういう、「すぐに社会に役立つ」、みたいなこと、ほんとうに、目の前の問題を時間限りで解決するだけというか、根本的な問題解決になにもなってないとおもう。
芸術家の皆さん、!!、!社会のニーズなんていうクソみたいなワードに騙されないでくださいね!!!!!
なんだか怒りが先行してきてしまったし、時間もばかみたいにかかってるし、あしたも授業があったりするので、もうこのへんで。
残念だなあと思います。とても。やったことあったりもやもやしているから気持ちがしょげてるとかではなくて、このプロジェクトに参加できないことで、なにがしかの出会いとかをなくしてしまうかもしれない自分が、とても残念な人間にみえて、またかなしくなっています。
でもとにかく「社会のニーズ」とかっていうやつには気をつけたほうがいいぞおやすみ。
ど素人こそ声にせよ:一億総「理解」症候群と戦うために
こんにちは。筆者だよ。
このタイトルにはしばらく迷いました。何ごとも、名前はとても大切なものですから。
私はけっこう、韻の感じというか、声に乗せやすさを重視するタイプですから、書いては読み書いては消し、ようやく落ち着いたのが本日の、このいくぶん挑戦的なタイトルです。
昨今いろいろと見に行ったりするなかで、やっぱり一番気になるのは、このことなんですね。
「理解する」
アートの世界のなかで、非常に重要なワードだと思います。ただしこの言葉は、アートにとって重要なイヴェントでもエレメントでもないのでご注意。
今回はこのお話にしようと思います。
例えば、私は無類のアート好きで、特に現代美術なんかにとても凝っている。
だから最新の展覧会や個展の情報なんかを聞くと、たいていはひょいとバスか電車に飛び乗るわけですが、そうして見た後にはアレがよかったココがいいとSNSなどでひとに勧めますよね。友人たちと昼食を共にしながら、他愛もない会話とともにその話題を混ぜることもあるでしょう。
ただ、そういった時に聞かれる言葉で、最もひっかかりがある(そして、その気もちも十分にわかる)ものはこれです。
「ゲンダイビジュツって、よくわかんなくて」
だよねぇ。
わかる。わかるぞその気もちは。
だって向こうははじめから、「わかるもの」なんか提示してないんだもの…。
または、「『わかること』など求めていない」あるいは「理解を前提としていない」と言いかえてもよろしいかと思う。
これがもし、数学の問題だったとしましょう。センター試験の国語だったとしましょう。
それなら話はとっても早い。答えがあって、そこに辿り着けばいいんです。
そのための近道も裏道も、大人たちはみんな知っている。知っている奴が有利で、分かった奴が成績上で上に立つ。
「答えがある」ということは、とても明快でやりやすい。
しかしながら、アートはそれらとは全く無縁なのです。
「わかんないけど、なんかイイかも」
この、「受容する感性」(価値観と読み替えてもいいかもしれません)こそが、アートを観る上ではとても重要です。
けれど、これがなかなかどうして難しい。
理解できないものを嫌がる感覚は、誰にでもあります。わかんなかったら気持ち悪いものです。
でも、例えば一つの答えがあったとして(あくまで例えであって、本当は存在しません)、それって意味のある事でしょうか。
何度か、終演後に演出家のアフタートークがある劇を見に行って、そこでも観客からこんな質問が飛んでいるのは、珍しいことではないようにおもいます。
「〇〇って、どういうことなんでしょうか」
アッそれ聞いちゃうの???!??!?!
あなた何の為にお友達ときてる?!?!!!?!
このあとカフェでその演出についてアレコレ話すためでは???!?
たまげました。
正直に言います、作品の「意図」を探ることって、めちゃめちゃに野暮い行為だと思います。
作者に真正面から正直に聞いてしまって、もし作者が何か言ってしまったら。(実際は、少しばかり濁すか、ぎりぎりの躱しをするかでしょうと思います。そもそも制作側も答えをもたないこともしばしばあります)
それが「正解にもっとも近いもの」になってしまうではないか。
なんのためにわざわざ文字を演技に起こして大勢に見せているのでしょうか。
「自分の答え」を自分で考えてほしくて見せているのです。
といって、たいていの脚本家や演出家は、そこまで壮大なテーマ性や意図を作品にいれているというようなことは、あまり聞いたことはありません。
そんなことをすると、作品は「芸術」から離れていってしまう。つまりプロパガンダに近づいていくということです。
でも、「こういうことを前提として作品に向き合う」ということに慣れていないと、やっぱり「理解すること」に神経が使われてしまうんですね。
特に、大人になると「理解できないこと」をより一層受け入れられなくなります。
分からないことを分からないままにできない。分からないと言えない。分からないと楽しくない。
もちろん、誰それの大作油画をみて「これはこれまでの絵画とは全く異なった技法が使われていてそれは社会のこういう動きがどうたらこうたら」ということがわかれば、「より」芸術に親しむことが出来ると思います。
そうしたくて美術史の社会人講座を受講されている方は私の大学にもたくさんいらっしゃいます。とても素晴らしいことです。
けれど、わたしは大学1年生の春、学芸員資格のために右も左も分からないまま、とにかく必修とかかれた美術史の講義を履修登録をしました。
恥ずかしながら、西洋美術のことなんて何一つ知らなかった。
ピカソのことだって「わけわかんなくて好きじゃない」としか思っていませんでした。
けれど今は、美術史をはじめとする膨大なレポート量を要した数々の学芸員資格科目を打ち倒し、「青の時代はなかなか好きだけどあとはそんなに好きじゃない、でも現代美術の発展のためにこの人が行ったことはマジでヤバい」と思ってます。
この4年間で私は、「色々見てその発想はマジですごいんだけどやっぱり作品の良さはそんなにわかんない(=売っててもコレクションしないと思う)」という結論に至ったのです。つまり、理解したってやっぱり自分の感性にはピンとこなかった。ごめんなピカソ。その偉業を尊敬はしてる。
逆に言えば、「ドンピシャ」なものもあるんです。ありますよ。読んでくれているみんなに、もっといえばみんなに関わる全ての人にあります。世の中にどんだけ作品あると思ってんだ。
わたしはあると信じているし、この「信じる」ことこそが私を動かす強い力に変わります。
誰かのどこかに存在する「スイッチ」を押す、「めざめ」のための最初の作品。
それは絵画かもしれないし、彫刻かもしれないし、書画かもしれないし、演劇かもしれないし、音楽かもしれない。
だれがどんなものに「目覚める」のかは私にはわからない。だからこそ芸術は楽しいと思う。予測できないことは、多くの不安要素とともに、心躍る高揚をももたらします。
不特定多数の、不特定多数の感性に向かって発信されている芸術が、また新しいものを創造するきっかけになる。こうして芸術はこれまで続いてきました。私はそう信じている。
つまりは、「芸術を楽しむこころ」であると思うのです。
ただこれについては、多くの場合は文科省のせいだと私は思う。小・中・高といった普通教育のなかで、芸術に親しむ感性を育ててこなかった。
社会のなかで、芸術が生きるのに必要ないもの、金持ちの教養のように扱われていて、とくに現代美術などにいたっては、ピカソが権威であることが広く伝えられるのみである。
私まずこの「教養」としてのアートみたいな在り方って間違ってると思うんですね。
だってそもそも芸術って文化の中から生まれてんですよ。
ならその文化圏にいるひとは、すべて等しく芸術を享受できるべきでは?
アートというのは、「素人は黙ってろ」なんて世界じゃない。
ちゃんとそういうことを教えてないし、感性を磨くための授業も雑だった。私の卒業した高校も、芸術科目は選択でした。
以上半ば怒りながらも、自分もまた辿ってきたこの茨の道を振り返りながら、ばかみたいに高く見せかけられた敷居を壊す準備をしている。
そして、これを読んでくれているみなさんにも、ぜひしてもらいます。
思うに、感性という磨くのは、
①まずはこれまでの歴史のなかで「良い(と言われてきた)」ものをみて、
②「これがなぜいいものなのか」ということを正しく理解していく
ということだと思う。何事も模倣から始まるってピカソも言ってた。
そしてあとはポケモンgoみたいな感じ。
③自分の琴線に触れる何かを求めて旅立つ。
いいと思ったらグッズ売り場でポストカード買うとか、その美術館の次回展覧会をチェックするとか、行ったチケットを集めてニヤニヤするとか。
私はこの過程、大学でやっとやりました。東京にしこたま通う日々、一ミクロンだって高校生のころは想像していなかった。
だから私はもういいのですけれど、そうじゃない人って、世の中にすごくたくさんいる。これめっちゃ大変だよ~。社会の変革大変~。
まあでも、私やります。待ってて社会。笑えよアート。
長くなっちゃったんですけど、みんな大丈夫ですか?ここまでついてこれてる?読んだ人は「ピカソと遊ぼう」って呟いてみてね。
今回の総括は、
芸術は天才のものではない。すべて我々のもの!ということ。
自信を持って。ほんの少しの期待も一緒に。
理解なんかできなくたっていいんです。向こうはそんなの求めてない!
リラックスしてたのしんで!
そういうことです。
そして行こう、まだ見ぬ推しアートに出会うために。
ど素人こそ声にせよ!
みねこ
補足と、「芸術」と「美術」ということばを知ること
こんにちは。筆者だよ。
長らく空いてしまったよ。年も変わり、今年こそは、たくさん、やるぞ。
どうぞよろしくお願いいたします。
まずは前回の発言について少し補足があるよ。
日本と欧米のアートフェアの規模についてだよ。
日本でもっとも大きなアートフェアは、みんなの予想通り東京で開催されている「アートフェア東京」だよ。2005年にはじまって、今年で11回目。正確な数値はまだ発表されていないけど6万人の動員を見込んでいて、去年は5.5万人が来場したよ。参加galleryは157で、うち国内のところは138だよ。
一方世界では、スイスのバーゼルで行われる「アート・バーゼル」が世界最大規模といわれているよ。1970年に始まって、今年でなんと46回め。動員は7万人を越えていて、参加galleryは300前後、1万点くらいの出品があるよ。
ここでのポイントは、「人口に対する来場者数」だよ。
東京の人口は1320万人。対してバーゼルの人口は16万人。
もちろん、バーゼルの面積は千代田区(アートフェア東京の会場である東京国際フォーラムがある)とお隣の中央区を足したくらいなので、千代田区と中央区との人口と比べるなら、わずかに少ないくらいなのだけど、アートフェア東京は「東京」って名乗っちゃってるから、もうそこは向こうさんの責任です。
きみが「東京」を名乗るなら、これが「東京」のすべてです、そういうことになるのだから、こうやって比較するしかない。
2015年の2月、ニューヨーク・タイムズが世界の国際アートフェアの動員数について書いた興味深い記事があるのですが、
このわかりやすい図を見て頂きますと、日本のフェアについてはひとつも載っていません。アートフェア東京は国際的マーケットにカウントされていないのです。当然ではあるけど…。
まーそんなこんなで、まだまだだねえというとこで今回は止めておきます。
自分もまだまだ勉強中の身なので、また追記できたら。
★そういえば、つい先日、表参道スパイラルガーデンにて、
「the artfair +plus-ultra」というイヴェントがあったので行ってきました。
買い物ついでの若い人も多くて、どのギャラリーの方もとても親切にしてくださった。
うれしかったなあ。2点、買いました。
で、遥か彼方昔の前回、『「芸術」と「美術」について書く』と言ったので、ここらでひとつ確認しておきましょう。
みなさん、言葉の意味を調べるとき、なにで調べていますか?
ネットで済ませちゃっていませんか?
もちろん、意味の大枠をつかんだり、読み方や書き方を確認するならそれで十分です。しかし、やっぱり最後には、紙の辞書で、言葉の意味をちゃんと確認するのがもっともよい方法であると思われます。
どこが責任もって書いたのか、だれが責任もって定義付けしているのかが明記されている辞書がよいです。
わたしが進学先の先生に勧めていただいたのは日本国語大辞典ですが、「必ず紙の辞書をひいて、きちんと定義づけを理解しなさい。曖昧にことばを使ってはいけません。そんなことをすれば、文章も議論もまったく意味のない空虚なものになってしまうから」と何度も何度も指導いただきましたし、まったくその通りだと思います。
わたしは、言葉で説明ができないものを信用しません。
一方で、芸術には信用なんていらないだろとも思います。
でも私は、私が好きな芸術の、何が、どんな点が評価できる部分なのか、言葉にすることは、たぶんできます。
なぜなら、きちんと言葉にしないとレポートで加点されないし、他者に伝えることができません。
他者と感情の共有なんて不可能です。完全に理解し合うことができないから、「同じことば」というもので媒介して、あゆみよっていくのです。
では、ここで、わたしの「芸術」と「美術」の理解を共有してください。
げい-じゅつ【芸術】〚名〛
①学芸と技術。
②武芸と技術。
③鑑賞の対象となるものを人為的に創造する技術。空間芸術(建築・工芸・絵画)、時間芸術(音楽・文芸)、総合芸術(オペラ・舞踊・演劇・映画)など。また、ごその作品。
④高等学校における教育課程の一つ。各科目に必要な知識や技術を取得させ、創造的表現と鑑賞の能力を高めることを目的とする。音楽、美術、工芸、書道が含まれる。
みなさんがご存じの意味、じつは三番目なんです。Artはもともとは、Nature(自然物)の対義語として、人為による技術を意味していました。語誌も興味深いです。
近世まではもっぱら「学芸・技術」の意で用いられたが、明治期に西洋文化の摂取が盛んになるに及んで、英語のartその他、美の表現・創造を共通の概念とするヨーロッパ各言語の訳語としての③の意が出現した。ただし、明治初期にはむしろ同じ訳語に「美術」を用いることがより一般的であり、「芸術」が新しい意義で定着するのは、ほぼ明治三〇年前後である。
そして美術はこう。
び-じゅつ【美術】〚名〛(英 fine artsの訳語)
美を表現する芸術。現在では特に、空間的・視覚的美を表す絵画、彫刻、建築、工芸、写真などをいうが、明治期には詩歌、小説、音楽なども含めて広くいった。 *美妙学説(1872)<西周>一「西洋にて現今美術の中に数ふるは画学(ペインティング)、彫像術(スカルプチュール)、彫刻術(エングレーヰング)、工匠術(アルキテクト)なれど、猶是に詩歌(ポエト)、散文(プロス)、音楽(ミジウク)、又漢土にては書も此類にて皆美妙学の元理に適当する者とし、猶延いては舞楽、演劇の類にも及ぶべし」
私が「Art/Arts」ということばを使うとき、なんとなく訳語に「美術」を使うことが躊躇われるのは、近代になって「美を否定する芸術」が登場したためです。芸術そのものに対するアンチテーゼ的な作品も多く登場しました。「反芸術」(最終的にこれらは自らを否定する結果となり衰退していきましたが、その影響力は絶大です)などがよい例ですね。
ここは美術の講義の場ではないので、詳しい説明などはしませんし、前述のとおり私自身まだまだ勉強中の身ですので、みなさまに講釈垂れるような真似はできません。
とまあ、このような感じで、私の認識(=辞書の定義)を共有していただけると、今後の記事もより齟齬なくお伝えできるかと思います。
私はいつも、以上の言葉を書き写したA4のコピー用紙(私は講義ノートをとる際コピー用紙を使用しています。印刷にもすぐ対応できるし、罫線があると邪魔なことも多いし、何より安い!)を、レジュメやフライヤーをまとめたクリアファイル(ノートがコピー用紙なので、必然的にクリアファイルで管理することになる)の先頭に挟んでいます。
いつもいつも見返して、ちゃんと自分のなかに落とし込めるように。
言葉はとても大切です。適当に曖昧に使うのでは、相手にもそれくらいにしか伝わらない。キャッチーなフレーズではなく、誠実な言葉を選ぶ。
そうしてこれからのものを作っていきたいと思います。
とりあえず、この記事をアップしないと先が進まないので、取り急ぎ、なんの脈絡もありませんが、これにて。
アートは見てよし愛でたし買えばよし
こんにちは。筆者だよ。
昨今はいろいろなSNSが飛び交っていて、いろいろなことをすぐに、多くのひとにシェアできるようになって、かくいう私もそれらを存分に活用していて、りっぱな、スマホに繋がれた犬となっているわけです。
けれども、個人的におもうことが少しばかり、いやとっても増えてきて、それらはあんまり大きく開かれたところや、文字の制限があるところでは、なんとも気恥ずかしい。
なので、ブログへと帰ってきた次第であります。
このブログでは、「アート」を中心にあつかいます。
わざわざ英語にしているのは、「芸術」と言う言葉をあててもよいのですが、「美術」ということばを使うものを扱う場合がありますので、より広義の意味で、「アート」ということばに逃げを打つことをご了承願いたい。
※ふたつの言葉については、次回述べることにします。
で、アートについて、たとえば展覧会のこととか、おともだちと話して考えたこととか、またお芝居をみてかんじたこととか、つまりエッセイなどを、思うままに連ねていくことになるのでしょう。
言いたいことはたくさんあるのに、いつもふわふわと考えるばかりで、なかなか文字にしないものですから、すぐに忘れていってしまって、そうしていつか、小さく黒いかたまりのようなものになっていくことが、少しばかり恐ろしくなったのです。
では、本日の本題に入ろうと思うのですが、今回は、なかなかどうして、テーマを選ぶのがむつかしい。何事も初めが肝心ですからね。
なにを書こうか、どうしようかと思うだけできのうも今日も過ぎていきます。
ですから、本日は総記として、「アートを買う」ということについて、お話しようとおもうよ。
突然どうしたと思われるかもしれないけれど、かくいうわたくし、筆者は、23歳にしてアートコレクターの道へと進もうとしています。
私がはじめて作品を買ったのは、今年の3月12日。まだギリギリ22歳でした。
この世界には、アートフェアという芸術の売買スタイルがあるのですが、日本なら国際展示場、パリならグランパレのアーチ天井の下、スイスならメッセ・バーゼルを会場として行われる、いうなれば大規模なアート見本市、展示即売会です。
私がいった「アート・イン・パークホテル東京」や「アートフェア・アジア・福岡」は、なんと会場がホテルの客室。
普通は人々が泊まるお部屋のなかに、いっぱいの作品が滞在しているのです。
ベッドのうえはもちろん、サイドボードも壁も窓も、使うところはバスルームのなかにまで作品で埋め尽くされている。ギャラリーが誇る自慢の品々がこれでもか!とそこに並べられている。圧巻といえます。
そこで私は出会ってしまったのです、かの絵というものに。
わたしがいわゆる「美術に目覚めた」のは大学2年のときで、それはポーラ美術館でモネの≪セーヌ河の日没、冬≫を見て涙が止まらずしばらく突っ立っていたことに起因するのですが、久しぶりに味わいました。
私が支配しているはずの私の目が、かの絵を見ることしか許してくれなくなるのです。
しぜん涙が止まらなくなり、そしてわたしは親切なギャラリストに心配してもらいながら、また言葉巧みに誘導され、支払いの契約書にサインをすることとなるのです。
あれから半年が経って、気づけば私のコレクションは9点になりました。うち3点は、まだ完済しておりませんので手元にはありません。
そう、アートって、分割払いできるんですよ。その場で札束ボーンじゃなくても、小切手バシーンじゃなくてもいいんです。
もちろんそんな高額なもの買いませんけど…。てか買えませんけど…。
とはいうものの、最初に買ったのはおよそ一介の貧乏学生が買うような金額ではないのかもしれない。いくらとは言いませんが、わたしが月末から通う自動車学校の合宿免許費よりも高額です。ワーオ。
でもね、ギャラリーのひとというのはたいてい優しくて(とくに女のひとは、とても親切)、お支払いはいつからでもいいですよ、分割の回数もそちらにすべてお任せします(もちろん営業トークなどではなく、本当に自由に回数を決められる)とニコニコしてくださることが多いです。
とにかく、別にぜんぜん難しいことではないのです、絵を買うということ自体は。
美術館に飾ってある絵は、たいがいだれかが所蔵しているものですから、私が手に入れることは、当然のことながらできません。
一方で、ギャラリーとか画廊に行けば、絵を、その世界にひとつしかない制作物というものを、簡単に自身の固有財産とすることができます。
そもそも作品というのは、なにも数十万数百万というものばかりなわけありません。10年着たいコート、貯めたお小遣いで買ったスニーカー、とっておきのデートのためのワンピース。
アートというものは、それくらいの価格帯で世界中に向けて発信されているものですから、本来はそこかしこにあるべきなのです。
けれども、多くのひとびとはそれを知らないのです。実際、私も半年前まではまったく思いもよらないことでした。
わたしは、もっとたくさんの人に味わってほしいのです、
絵を買うことの喜びというものについて。
それはとても喜ばしい感情です。たとえば新しい靴を初めて履いて出かける日、新しい音楽に出会った日、待ちに待った作品が開幕した瞬間――その時と同じように、新しく、愛すべき作品に出会うということは、間違いなく歓喜の時間なのです。
そしてアートというものは、対価を支払うことで、その作品を生み出した作者に対して敬意と愛を表することができるだけでなく、作品そのものを、間違いなく「自分だけの」ものにすることができるのです。
えっこれ素晴らしくない???????????
すてきな作品を所有することへの対価がそのまま作家を支援することになるシステムイズヤバみ??????????????
なんかねたまにアートを価値、とくに金銭的なあれそれと結びつけることに眉を顰める人がいますが、花屋が花を売っているように、絵描きというのは、絵を売って生きているわけです。
あなたが売りたい、わたしがほしい、ですからそれでいいわけです。需要と供給が一致しているわけです。
目を向けてほしいのは、価値を判断するということの是非ではなく、作品を愛し、作家を応援するために、対価を支払うという行為そのものなのです。
日本のアートシーンは、はっきりいって欧米諸国にくらべて、というかアジアの隣国にすら10年あるいは20年遅れています。
まず日本には、常設的なアートの売買システムがない。今回のような、年に一度のイベントでもない限り、多くの人(それでも人口に対する来場者数は、欧米の100分の1程度です)が訪れることはありません。
ですから、作家がみんな海外へと流れていく。欧米での箔がなければ、故郷の国で価値が見出されない。だからもっと作家は海外へ…という負のループが止まらないのです。
このような日本のアートのしくみを変える、端的にいえば、
日本人作家が日本で食べていけるようにする。
これがわたしの当面の人生のすべてです。そのために今、エンゲル係数を最高値まで上げながら、出来る限りのたくさんのものを、自分の目と足で、見て、歩いて、感じています。
このブログは、そんな大層な夢を抱えているただの学生の、思考整理のためのメモ帳ですが、できることから、こつこつと。
やってみよう、買ってみよう、アート。
2016年11月5日、6日。
文芸大の、ちいさな小講義室で。
あなたと出会えるのを、アートはずっと待っています。
なんか最後番宣みたいになったけど、いろんなところに大きく出た感じで言いふらし回っているので、ぜひ遊びに来てくれると嬉しいです。
ブログがんばりますので、ときどき覗いてやってください。
みねこ